2019/08/01

名古屋の古地図を紐解いてみよう!

名古屋の古地図を紐解いてみよう!

名古屋の古地図を紐解いてみよう!

◆フラタモリ◆
https://www4.nhk.or.jp/buratamori/
ブラタモリの何に魅力を感じるかって?
人それぞれかと思いますが、私の場合は、古地図を紐解くタモさんの嬉しそうな顔に
幸せを感じます!
古地図は、過去から現在までの歴史を線で結んだ過去の大先輩方との繋がりを感じられることも
私にとって魅力です。

というわけで今回は、「名古屋の古地図を紐解く」を少し紹介しようと思います!
今回紹介する内容に関しては、ロム・インターナショナルの「名古屋を古地図で歩く本」を参照しました。
◆名古屋を古地図で歩く本◆
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784309499505

▼名古屋城の南と東に寺院が集中している理由とは??
名古屋城からみて、東側には建中寺、相応寺があり、南側は、通称大須観音と言われている宝生院、
政秀寺があります。
では、なぜ東と南にお寺があるのかというと・・・江戸時代、実は名古屋城の北側、西側は湿地帯で
敵が攻められない地形でした。そのため、敵は東側かまたは、南側から攻撃を選択するしかなく、寺の広い
境内に大群を準備させる防衛目的で配置されたのでした。
ちなみに南側は、臨済宗、浄土宗、真言宗。東側は、曹洞宗、日蓮宗の宗派を配置。
浄土真宗は配置されなかったのです。なぜか?それは、当時、浄土真宗の一揆がよくあり、徳川家康が
浄土真宗を嫌ったからと言われています。

▼家康はなぜ清須城の城下町を名古屋へ強制移転させたのか?
徳川家康は、当時、清須城を本拠地として考えてました。
しかし、家康の家臣で小田原の戦いで多大な功績を残した山下氏勝の一言で、家康は清須城から名古屋城へ
引っ越しを決めたらしいです。
その一言が「清須の地は、低地に位置して五条川を利用して水攻めをされる恐れがございます。そこで、小牧
古渡、那古屋、いずれかの地に新たな城を築くべきにございます。」
この言葉によって家康は、東北の山、西北の木曽川、北の湿地が自然の要害を果たし、清須より標高がある
名古屋に城を構えることに決めたということです。

▼江戸時代にタイムスリップできる歴史スポットはこうして生まれた~四間道~
高層ビルがならぶ市街地に江戸時代にタイムスリップしたかのような感覚を抱かせてくれる場所
それが、四間道です。なぜ、四間道と名前がついたかというと、道幅が4間(7.2メートル)であったからです。
江戸時代、名古屋城が近くで商業が盛んであったこの地域。しかしその頃は道幅は、3間でした。。
1700年2月7日に発生した火災によって、大きな災害に見舞われました。再建をするのに、火災の教訓を
いかして、道幅を4間に広げたということです。

四間道には、弊社物件がございます!是非、宿泊を検討してください!

▼名古屋一の繁華街の歴史は「大火」から始まった
栄は江戸時代、名古屋城下、町外れの下級武士の屋敷地帯でした。そんな栄が発展する転機になったのが、
1660年に発生した「万治の大火」でした。この大火によって、武家屋敷110軒以上、お寺30軒、町屋
2600軒が消失したと言われています。
大規模な火事の原因は、密集して建てられた家屋だったため、それまで3間の道幅だった堀切通を15間(27メートル)
へ拡張して防火帯としました。こうして生まれたのが、「広小路通」でした。
広小路通には、恒久的な建物の建設は認められなかったが、すぐに撤去できる仮設の見世物小屋、芝居小屋が
立ち並び、栄は繁華街へ変貌を遂げました。

▼銀杏並木なのに桜通りと名付けられた事情とは?
名古屋駅の東から都通りの内山町交差点まで、桜通りが東西に走っている。
桜通りが完成したのは、1937年。公募によって桜通りと決まったということです。
なんと、桜通りには一本も桜の木がなく、120本の銀杏並木が広がっています。びっくりです。
では、なぜ桜通りと名付けられたか?興味がわきますね。
桜通りと本町通りの交差点に「桜天神社」があり、境内に大きな桜の木があり、その桜の木から、桜通りが
名付けられたということです。残念ながら桜の木は、「万治の大火」によって焼失してしまいました。
ただ、桜天神社は、都市開発の影響で縮小されてしまいましたが、今も残っているので、足を運んではどうですか?

▼「なごや」の表記はなぜ混在しているのか?
もともとは「那古屋」と表記されていたようです。平安時代末期に荘園として、「那古屋庄」が登場します。
それが歴史上の最初に現れる「那古屋」ということです。
室町時代には「那古屋」で統一されましたが、徳川家康が名古屋城を築いたときに「名古屋」に統一したということです。
今も、徳川家康の影響が続いていると思うと、家康様との繋がりを感じるのは私だけでしょうか?
ところで、なぜ、「なごや」となったのでしょうか?諸説あるということですが、
ひとつは、昔の「なごや」エリアは漁村であった説。「な」は昔の言葉で「魚」、漁師を「なこ」と読んだそうです。
「なこ」の住んでた村から「なごや」になったのではないかということです。
ふたつめは、大きな波から名前をとった説。名古屋近辺は、昔は海が広がり、大きな波が発生していたということです。
それのため「浪越(なごや)」と呼ばれるようになった説。
どちらにせよ、名古屋の由来は海に由来があるようです。

▼太閤通、豊国通・・・秀吉関係ゆかりの名称が多い地区の謎
名古屋駅に西側の中村区には、「太閤通」「豊国通」「千成通」と豊臣秀吉に関連した名称が残っています。
「太閤」は、関白職を子息へ譲った人のことを指す言葉。秀吉は、甥の秀次に関白職を譲り自身を「太閤」と名乗り
ました。
また。「豊国」は、秀吉の死後の神号が「豊国大明神」にちなむ名称ですし、「千成」は、秀吉が自身の馬印として
使用した千成瓢箪に由来します。
では、なぜ、中村区はこんなに豊臣秀吉に由来する名称が多いのでしょうか?答えは、ひとつ。
豊臣秀吉が生まれた地域だからということです。

名古屋は、昔は海に覆われ、江戸時代大きな火事によって繁華街へ生まれ変わり、名古屋城によって
商業の町として栄えました。徳川家康の大きな影響を受けていますが、実は、豊臣秀吉の生誕の場所であり、
歴史的にも面白い地域だと思いますよ!